新潟県生活と健康を守る会連合会
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会の歴史

新潟県生活と健康を守る会連合会(「新潟県生連」)の結成まで

第2次世界大戦は、世界と日本に大きな惨禍をもたらしました。日本では、戦後失業者が1324万人に達し、結核が全国に広がりました。

1948年(S23)頃より、敗戦の混乱と激動のなかで各地に「生活を守る会」「健康を守る会」が結成されました。1954年(S29)11月、「働かせろ、食わせろ、病気を治せ」と、誰もが人間らしく生きる権利の保障を求めて、全国生活と健康を守る会連合会(全生連)が結成されました。

それを前後して新潟県内でも生活と健康を守る会がつくられました。1953年(S28)、農家の主婦や傷病者などを組織して五泉に会がつくられました。新津や長岡では失業対策事業で働く労働者を中心に会がつくられました。

新潟市では、舟江診療所と沼垂診療所を中心に、「生活を守る会」「健康を守る会」がつくられました。

1964年(S39)6月16日、戦後最大の地震が新潟を襲いました。大地が裂け、橋げたは落ち、アパートが倒れ、津波は信濃川を逆上り家々を飲み込みました。全生連は、専従者を派遣して救援活動をおこないました。

1965年(S40)、救援活動がきっかけとなり「生活を守る会」「健康を守る会」が合同し、新潟の会が結成されました。

1966年、67年の加治川水害の救援活動を通して、新発田に会が結成されました。

池田内閣の下、安保体制が強められ、高度成長政策によって公害、交通事故が多発し、物価高騰、保育所や学校不足などが深刻となり、新たな低所得者が増大しました。

1967年(S42)12月、新発田、新津、新潟、長岡の守る会が集まって「新潟県生活と健康を守る会連合会」(新潟県生連)を結成しました。当時の県生連の活動を紹介しましょう。

新潟県生連の結成後

1968年11月、十日町市福祉事務所が、視覚障害を持っ母子家庭の母が、手探りでつくった僅かな野菜を収入認定して生活保護を打ち切り、母親が4歳の子の手を引いて凍りつくような信濃川に身を投げる事件が起きました。

県生連は、十日町へ調査団5名を派遣。父親などから事情を聞き取り調査しました。早速、県に抗議の交渉をしました。それは土曜日でしたが午後2時まで続けられました。

新潟市では、生活保護の夏期、年末手当の増額を求めてたたかいました。当時は、市長室前での座り込みは常で、新婦人、共産党、労働組合が激励に駆けつけました。課長席を取り囲んでの交渉も珍しくありませんでした。

水俣病患者の支援、北越製紙解雇反対争議団の労働者に、生活保護を支給させるたたかいもおこないました。

憲法が国民に保障する「健康で文化的な最低限度の生活」とはいかなるものかを問うた「朝日訴訟」では、全国キャラバンなど、支援活動に取組みました。

しかし、その後、県生連としての活動が途絶えました。

1976年2月11日、新潟、新発田、新津で革新市政が誕生するなど革新勢力が大きく前進し、福祉の充実を求める運動が高まる中、8つの守る会・517世帯の会員を結集して県生連の再建大会が新潟市でおこなわれました。

事務所に専従職員を迎え、要求を実現する運動と会を大きくする活動に力を入れました。中でも、義務教育の児童生徒の給食費、教育費を支給する就学援助制度は、県生連が中心となって県下各地で運動をすすめ、改善・実施されるようになりました。

1980年代のたたかい

80年代は、軍備拡大と福祉の切り捨てを狙った臨調「行革」が中曽根内閣によって推しすすめられました。

1981年、厚生省は「123号課長通知」を出し生活保護のあからさまな削減を開始しました。保護申請を受け付けない、保護受給者を切り捨てる「水際作戦」の始まりでした。

県生連は、社会保障・社会福祉制度の抜本改悪に反対し、くらしと平和を守るたたかい、会員をふやす取組みに全力をあげました。

平和を守る運動を前進させ、要求の実現を求め、全民主勢力が結集して開催した国民大集会などにも積極的に参加しました。

「地方行革」による福祉切り捨て、住民負担増に対し、「福祉の充実を目指す連絡会」を県段階や新潟市で結成。大規模な交渉をおこないました。こうした共同に県生連・守る会は中心的な役割を果たしました。

核兵器の廃絶を目指す運動にも取組みました。古町十字路で折り鶴でタペストリーをつくって展示し、核兵器廃絶を訴えました。

1988年、大型間接税に反対する国民大集会にマイクロバス2台で50名余が参加しました。

1989年、世界人権宣言40周年記念「福祉まつり」を新潟市体育館で開催。2500名を集めて成功させました。

全生連中央行動・予算要求交渉には、毎年30名、40名の代表が参加しました。

会員の日常要求を実現する活動も強めました。班や地域での食事会、なし狩りやぶどう狩りなどもおこないました。

お墓がなくて困っている会員の要求に応えて、新潟で共同墓地を完成させました。

会の名が入ったはっぴを作り、新潟祭りにも参加しました。

1988年、新潟県塩沢町でおこなわれた全生連全国活動者会議にむけて、これらの活動をすすめながら会を大きくしました。

1990年代のたたかい

90年代。臨調「行革」路線による制度改悪、戦後最悪の不況により国民生活が大変になりました。一方では、佐川疑獄事件のような金権腐敗政治が横行。国民の怒りが沸騰しました。

新潟県生連は、班会での「私の要求」の話し合いを土台に、会の活動を前進させました。

暑い日も、雪の日にも宣伝、相談会など、班を基礎に地域に打って出る活動をすすめました。

公営住宅の玄関に手すりの取り付け、家賃減額制度を改善させました。班の取り組みで、県営早通団地で5階建て以下の団地に県内ではじめてエレベーターを増築させました。新発田中曽根団地でも会の運動でエレベーター取り付けられました。

高齢者の歩行を助けるシルバーカーや、ボタンひとつで周りに病気などの緊急事態をを知らせる「安心電話」、火災から高齢者を守る電磁調理器の支給を実現しました。

班で話し合い、署名を集めて世論を高め、県知事と交渉して「ひとり親家庭医療費助成制度」をつくらせました。これで安心して子供を病院にやれる」と喜ばれました。

東京北区の会員の「私の要求」からはじまった、白内障眼内レンズ健康保険適用運動は、全生連の取組で、僚原の火のごとく全国に広がりました。県生連は、喧伝・署名に取組、眼科医師会との懇談、地方自治体への申し入れをおこなって、保険適用実現に積極的な役割、なくてはならない役割を果たしました。

県が、突然生活保護世帯への歳末見舞品の廃止方針を打ち出しました。直ちに県福祉部長との交渉。労働組合や民主団体の支援を得て見舞金を継続させました。

津川町が、出産手当50万円の支給対象から生活保護世帯を除外した問題で、すばやく県と交渉し撤回させました。

急病時にも、生活保護世帯が安心して医者にいけるように、全国2番目で健康保険証に代わる「被保護者証明書」を発行させました。

福祉・教育切り捨ての「県事業見直し」に対し、立場の違いを越えて福祉関係者の共同を実現し、福祉充実を求める県民運動を前進させました。

80年代、90年代は、革新勢力と県民、住民の共同で住民が主人公の自治体をつくる活動をすすめました。

県生連は、知事選を要求を実現する絶好の機械と位置づけて、私たちの要求を県民に訴え、ひとり親家庭医療費助成制度、生活保護の「被保護者証明書」発行、乳幼児医療費助成制度拡充を実現しました。

県生連は、こうし活動を繰り広げ、1998年に月岡温泉で開かれた全国大会に向けて、会員を大きくふやしました。

2000年代のたたかい

2000年代。社会保障を大企業の儲けの場にし、抜本的に破壊する「構造改革」がすすめられています。県生連は、低所得者のあらゆる要求に応えられる会になることをめざして、要求実現運動、会員ふやしに取組みました。

2004年10月23日、中越地方を巨大地震が襲いました。線路は曲がり、道路や田んぼは崩れ、家は倒壊しました。

県生連は、翌日、長岡、小千谷へ調査と激励に行きました。全生連全国理事会で全国に支援を要請しました。

全国から義援金、救援物資が多く寄せられ、それを被災者に届け、救援活動をおこないました。エコノミークラス症候群で妻を失い呆然と家に倒れていた会員を病院へ搬送するなど、会員訪問活動は被災地の守る会と会員を大きく激励しました。

全生連中央行動で全国の仲間に被災状況を報告。中越地域の会の代表が政府交渉で実態を示して支援を求めました。

関東の守る会の協力を得て仮設住宅を訪問・調査をしました。それをもとに新潟県に対しても支援を要請。仮設住宅に玄関のひさしと風よけをつけさせるなど、被災者の要求を前進させました。

救援活動の拠点として長岡の守る会事務所を開設しました。栃尾の事務所も地域のよりどころになり、救援活動をにないました。

仮設住宅での相談会

災害、税金、暮らしの相談会を、被災地でおこないました。

これらの活動を通じて、柏崎の守る会の再建されました。再建直後に被災した小千谷の会員は、「1年前に会を再建しておいてよかった」と話しました。

全国、全県の支援を受け、税の自主計算・自主申告運動が前進しました。長岡で会員100世帯を突破するなど、中越の守る会が運動と会を大きくする取組みで前進しました。

生存権裁判

国は、高齢の生活保護者に支給していた老齢加算16670円を、06年度に廃止しました。これを不服として、新潟市の山田ハルさん、阿部長治さん、新発田市の長谷川シズェさんの3名が減額処分取り消しを求めて裁判を起こしました。裁判は、「健康で文化的な最低限度の生活とはいかなるものか」を問うものであることから、「生存権裁判」とよばれています。9都道府県・120名を越える原告が裁判を闘っています。

県生連は、誰もが人間らしく生きる権利・生存権を守り、確立する運動の拠点を持とうと、全県の会員に呼びかけて募金への協力をお願いし、新事務所を購入しました。

県生連は、「人間らしく生きたい」と願うすべての県民の会、温かい人間の社会的連帯で、生存権保障を運動をすすめる会として、未来へ大きくはばたこうとしています。