90年代。臨調「行革」路線による制度改悪、戦後最悪の不況により国民生活が大変になりました。一方では、佐川疑獄事件のような金権腐敗政治が横行。国民の怒りが沸騰しました。
新潟県生連は、班会での「私の要求」の話し合いを土台に、会の活動を前進させました。
暑い日も、雪の日にも宣伝、相談会など、班を基礎に地域に打って出る活動をすすめました。
公営住宅の玄関に手すりの取り付け、家賃減額制度を改善させました。班の取り組みで、県営早通団地で5階建て以下の団地に県内ではじめてエレベーターを増築させました。新発田中曽根団地でも会の運動でエレベーター取り付けられました。
高齢者の歩行を助けるシルバーカーや、ボタンひとつで周りに病気などの緊急事態をを知らせる「安心電話」、火災から高齢者を守る電磁調理器の支給を実現しました。
班で話し合い、署名を集めて世論を高め、県知事と交渉して「ひとり親家庭医療費助成制度」をつくらせました。これで安心して子供を病院にやれる」と喜ばれました。
東京北区の会員の「私の要求」からはじまった、白内障眼内レンズ健康保険適用運動は、全生連の取組で、僚原の火のごとく全国に広がりました。県生連は、喧伝・署名に取組、眼科医師会との懇談、地方自治体への申し入れをおこなって、保険適用実現に積極的な役割、なくてはならない役割を果たしました。
県が、突然生活保護世帯への歳末見舞品の廃止方針を打ち出しました。直ちに県福祉部長との交渉。労働組合や民主団体の支援を得て見舞金を継続させました。
津川町が、出産手当50万円の支給対象から生活保護世帯を除外した問題で、すばやく県と交渉し撤回させました。
急病時にも、生活保護世帯が安心して医者にいけるように、全国2番目で健康保険証に代わる「被保護者証明書」を発行させました。
福祉・教育切り捨ての「県事業見直し」に対し、立場の違いを越えて福祉関係者の共同を実現し、福祉充実を求める県民運動を前進させました。
80年代、90年代は、革新勢力と県民、住民の共同で住民が主人公の自治体をつくる活動をすすめました。
県生連は、知事選を要求を実現する絶好の機械と位置づけて、私たちの要求を県民に訴え、ひとり親家庭医療費助成制度、生活保護の「被保護者証明書」発行、乳幼児医療費助成制度拡充を実現しました。
県生連は、こうし活動を繰り広げ、1998年に月岡温泉で開かれた全国大会に向けて、会員を大きくふやしました。
|